れんぬメモ

ちまちま書い……てない

3/15雑記

無味乾燥なスマホの画面と向き合いながら早3日目になろうとしていた今日は、某塾の説明会でした。後期先へ入学するかどうかを考えるにしても、いよいよゴローニンがはっきり見えてきた気がします。ちなみにゴローニン提督、綴りは"Golovnin"なのでゴロヴニンだとかゴローブニンだとか多々表記揺れがWikipediaに記載されてます。あとなぜか肖像画の解像度が無茶苦茶低い。縁起だろうか。

行きに乗る新快速は後期受験以来、阪急は前期受験のメンタルズタボロ降車以来。行きも帰りもとてつもなく無の感覚でガルシア・マルケスの『失われた時の海』を読み返したり、同じ短編集に載っている『大佐に手紙は来ない』に手をつけ始めたりしていました。

新快速でインク壺からカードリッジがインクを吸い上げるように読んでみると……疑問符が飛んだ。改めて阪急で読みこぼしを拾っていくと物語の流れは掴めたものの……結局肝心なところが掴めない。そんな感じで『失われた時の海』を3、4回読み直していました。人間経験が足りないんでしょうかね。

 

さて、あまり文学そのものを広く見通せていない私がよりにもよってマルケス、それも短編集そのものよりは『失われた時の海』をピンポイントで読み始めたのかの流れをちょいとばかし書いておこうと思います。

全ての元凶はというと、父の趣味でした。

父がスペイン語をやっていたのをうちの婆さんも始め、私が生まれる頃には20年近いスペイン語界隈の基盤が出来上がっており、私自身もサンポーニャフォルクローレに使う竹っぽい材質の管がたくさんある楽器。日本だと湿気でカビが生えやすいらしい)を習っていたりしたことが。音楽としては、ラテン、フラメンコ、サルサ辺りを父の持ってたCDから吸収していきました。まあ自分のデスクの棚に入れてるCDのほとんどはジプシー・キングスですが。

で、そのCDの中に別のアーティストのものも混じっている訳ですが、その中の1枚が "Amor y Control" ——1992年発売のルベン・ブレイズのアルバムでした。本日2回目の誰得人名講座ですが、"Rubén Blades" を「ルベン・ブレイズ」と読むのは英語圏で、スペイン語圏では「ルーベン・ブラデス」的な読み方をするんだとか。

ブレイズ氏はご存命で、現在はウォーキング・デッドのスピンオフに出演していた宣伝ツイートから俳優業が主とお見受けています。が、70年代後半辺りから歌詞に政治的なメッセージも出始め、果てはパナマの大統領選に出馬して20%も票を得たという経歴もお持ちです。

で、ありありとラテンアメリカ社会を描き出したブレイズの歌に感銘を受けたある作家にはこんなエピソードがあるそうで。

 

ある作家は、新聞の編集者がジャーナリズムの本を膝に抱えていることについて「それを何のために?」と尋ねた。編集者が「学ぶために」と答えると、作家は彼に「ジャーナリズムを学びたいのならそれを捨てなさい、もっとルーベン・ブラデスの歌を聴きなさい」と言った。

(原文はこちら

 

その作家こそ、ガブリエル・ガルシア・マルケスでした。この話を知ったのはブレイズのアルバム"Agua de Luna" を聴いていて、明らかに曲調がいつもとは違うなと感じてググってみた時でしたが。

リンク先にも解説のある通り、このアルバムはマルケスの小説がモチーフとなっているのですが、『失われた時の海』は "Claro Oscuro" という曲になっています。

お待たせしました、なぜピンポイントに『失われた時の海』を読んだかを鍵垢のツイートでお見せしましょう。
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……はい。日付と時間でお察しください。複数解は捉えようです。

この後脳内で金属が螺旋を描きながら擦りきれるような感覚に襲われたらしいですが案外何とかなったらしいです。結果が出てこない辺り何とも言えないことに変わりないんですがね。

 

多分、マルケスの作品の「乾き」に共感してループしてたんじゃないかと思っています。ある村が建設されてからの流れを描いた『百年の孤独』、ラテンアメリカ統一の英雄の失意の晩年を描いた『迷宮の将軍』。目の前から黄金が幻と消えていくような感覚が、噛み合ったんだろうと。

ふと書いていて思い出したのですが、過去にループしていたブレイズの "Ojos de Perro Azul"(青い犬の目)も同名のマルケスの小説が元でした。またわからない短編なんだろうなぁ……。